がんと向き合った人たちから、心に残る本をご紹介いただきます
岸本葉子さん(エッセイスト)の一冊
『意味への意志』V・E・フランクル著
がんに対して、自分の未来に対して
自分は関われないという
「無力感」を克服することができた
退院後、心の指針になる本を探していたときに出会った一冊
たぶん、がんの治療による入院後から1年経つか経たないかぐらいのころだったと思います。心の指針になるような本をなんとなく探していたことから、書店に足を向けることが多くなっていたのですが、そうした日々の中で目に止まったのが『意味への意志』(V・E・フランクル著 山田邦男監訳 春秋社)です。タイトルにある「意志」という言葉がとても私を惹きつけました。
がんの治療のあとは、再発・進行するかどうかに対して自分のできることがない状態になったと感じていました。できる治療は全部した。それでもなお再発・進行の可能性がある。それは自分にとって生き死を左右するほど大きな出来事なのに、自分から何も働きかけることができない。体に関しては医師の方に色々ご相談しながら進めていくとして、心のほうはどのようにしたらいいのかと考えていました。
岸本葉子さん
「運命に対してなんらかの態度をとる自由は失われない」
著者のフランクルは、フロイトやアドラーの影響を受けて精神科医となったオーストリア生まれの人です。第二次世界大戦下で、ナチスによって強制収容所に送られ、家族の多くを失いました。その体験を記し、ベストセラーとなった『夜の霧』は、若いときに読んでいましたが、その後、彼がこんなに多くの本を刊行していたとは知りませんでした。
『意味への意志』の中でとくに印象的に残っている一文があります。
「どのような運命に見舞われようと、その運命に対して何らかの態度をとる自由は失われないのです。」¹
がんというのは、予防しきれない部分はあります。色々な生活習慣を心がけて、また健診を受けていても、それでもなる場合があります。それは努力の届かない運命と言えるかもしれません。そうした運命に見舞われてもなお、その運命に対してどういう態度をとるかという自由を失われないというのは、「自分はもう自由意志の働きかける部分がないんじゃないか」と思っている私に対して、「いやあるよ」ということを教えてくれました。
絶望的な状況でも意味を見出すことができる。それが「態度」なんだということを著者は言っています。
1.『意味への意志』(V・E・フランクル著 山田邦男監訳 春秋社)P137
人が意味を見出すものに三つある。その中でも高い位置にあるのが「態度価値」
「態度」について、フランクルはより具体的に記しています。²「人間はー意味への意志によってー意味を見出すだけでなく、次の三つの仕方で意味を見出すものです」。その三つとは以下のことを指すのですが、ここに「態度価値」という言葉が出てきます。
①何かを行ったり創造したりすることの中に意味を見出す(創造価値)
②何かを体験したり、誰かを愛したりする中に意味を見出す(体験価値)
③人間が避けることも変えることもできない運命に出会ったときにとる心構えと態度により意味を見出す(態度価値)
そして、この価値には秩序があり、創造価値、体験価値よりも態度価値が高い位置にあることが、一般の人の価値体験の現象学的分析から証明されたと書かれています。
この「態度価値」について、わかりやすい例が、フランクルのもう一冊の著書『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)の中に書かれています。³ それは著者の体験からのものです。
フランクルは入院中の終末期のがん患者さんの回診にあたっていました。その患者さんはフランクルにこう言います。死が数時間後に迫ったらモルヒネを注射するようにという指示が主治医から出されているのを自分は知っている。おそらく自分は今晩中に息を引き取る。あなたにはこの回診のうちにモルヒネの注射をしておいて欲しい。そうすれば夜中にあなたを呼んで眠りを妨げることがなくて済むから、と。
その人はベッドに寝たきりで、フランクルが言う「人が意味を見出す3つの方法」の中の創造価値あるいは体験価値を実現し得ないような人です。それでも、このように他者を気遣って、態度によって何かを実現している。これがその人が「変えることのできない運命に対して、その人がとった価値」であり、それも人間らしい業績だと彼は言っています。
ちょっと余談になりますが、がん治療から後に自分が親の介護をしたときに、排泄ケアも人に依存するような形となった最後の時間を過ごすなか、親から「ありがとう」って言われたり、あるいは言葉が出ない段階でも優しい様子でうなずかれたりすると、とても励まされる感じがしました。そういった、何も出来なくなっているように見える高齢者とか病気の人が、ほかの人に大きな励ましや癒しを届けるという場面も、きっとこの態度価値のあるところだろうなと思いました
2.『意味への意志』(V・E・フランクル著 山田邦男監訳 春秋社)P32
3.『それでも人生にイエスと言う』(V・E・フランクル著 山田邦男・松田美佳訳 春秋社)P74~77
一瞬一瞬について、自分はどのような態度を取るのかを考えて行動をしていきたい
「態度価値」について、フランクルは著書『それでも人生にイエスと言う』で、もう少し付け加えをしています。⁴ 態度価値を実現する機会は1回きりで、人生の中で常に1回1回「あなたはこの状況に対してどういう態度を取りますか」というのを問われているのだと言っています。
先ほど、「態度価値」の具体的な例を著書³より引きましたが、私が実際その患者さんの立場になったらどういう風に振る舞えるかわからないけれども、がんの再発・進行の、そして死の不安に立ち向かい始めたときの私に、「この状況でもあなたにはできることもあるんだから、一刻一刻自分がどう振る舞っていくかを自分で選び取っていきなさい」と言われたような気がしました。あとで取り返そうと思わずに、この一瞬この一瞬、自分が問われているんだという気持ちをもって、大きな場面、小さな場面に関わらず、生きている一刻一刻について、「これに対して自分はどういう態度をとるか」というふうに考えて行動していこうと思いました。
そのことを意識し出してからは、あとになって思い返して思い悩むみたいなことがなくなりました。「あの時、ああ言えばよかったかな」とか、「ああいうふうに思われたかな」とか。私、そうしたことを気にするタイプだったんですけど、それがなくなって、前よりもすごくシンプルになった感じがします。
一番変わったのは、「ありがとう」「ごめんなさい」をその場で言うようになったことです。前は「ちょっと悪かったかな」と思っても、迷ってしまい、すぐに言葉が出ないようなときがあったのですが。
たとえば身近すぎる例なんですけど、こんなことがありました。初めて訪れたイートインコーナーのようなところで、先に会計をするのか席を取るのかが分からず、荷物が多かったので先に席を取ったんです。その後、入り口のほうを見たら、入る前に私の近くでディスプレイを見ていたご夫婦がチケットを買っていました。「ああ、このお店は先にチケットを買うシステムだったのだ」と気が付き、もしかしたらこのご夫婦は、私が取った端のほうの席に座りたかったかもしれない、と思ったんです。謝るかどうか迷うところで、知らない人だから声をかけるのに勇気がいるけど、ちょっとでも悔いを残さないほうがいいなと思って、そのご夫婦のところに駆け寄って「すみません。私知らずに先に入ってしまいました。あちらの席、おかけになりますか?」って聞いたんです。そのご夫婦にしたらちょっと迷惑だし、変わった人だなと思われたかもしれないけれど、自分中心に考えれば、そんな小さなことでも後悔を残さなくてすみました。
4.『それでも人生にイエスと言う』(V・E・フランクル著 山田邦男・松田美佳訳 春秋社)P50
本番のための練習。練習そのものが「自分の心の習慣」をつくっていく
心と行動は直結していて、行動は人格を作って、人格がさまざまな関係性を作り、もしかしたら運命にも関わるかもしれないと思うと、何か大きなことがあってから考えようではなく、日々実践してくことが「自分の心の習慣をつくる」という感じがします。
たとえば、医療従事者とのコミュニケーションの方法という話の中でも、このようなことがよく言われると思います。がんのような一大事になったときに医者に分からないことを聞こうとしても頭が真っ白になって難しいことがあるので、日頃から、たとえば風邪のような身近な不調のときに、「喉が痛いです」「お腹が痛いです」「いつから何度の熱があります」と医師に自分の体調をきちんと伝えることで、コミュニケーションの練習をしておきましょう、と。その練習と似ていて、本番のために練習しておくというよりも、練習そのものが自分の形を作っていく、という気がします。
私はフランクルのこの本を読むことで、大げさに言えば生き方が変わりました。表面的にはその変化は人には気づかれなかったと思います。でも、再発・進行するかどうかをがんに委ねられているところはあるけど、それでも私は自由意志をもった人間であり、がんのなすがままではないっていう、「自分の生き方の主人公は自分なんだ」という気持ちを自分の中で取り戻すことができました。自分はそのがんに対して、自分の未来に対して自分は関われないという無力感の克服、が一番得られたことです。
これから、いろいろな本を読んでいきたいという方へ向けての一言
がんと心の問題を探るときに、あえてがんそのものを扱ったのではない本を読むことは、私にとってはたくさんのいろいろなヒントを得る機会になりました。がんになるとつい「がん」と書いてある本が気になるのですが、さまざまなところにヒントがあると思いました。
特に私は、今回ご紹介した本のように、タイトルの言葉が気になり、手に取ったこともありますし、また、がんに罹患したこと以外の形で、自分ではどうしようもない状況に置かれた人がそのことにどう立ち向かったのか、という本が気になりました。なかでも、戦争での体験をもとにした本は、自分では争えない仕方で命の危機にさらされる、別れも予想される、そうした局面にごく普通の人たちがどのように立ち向かったのだろうか気になって、よく読みました。フランクルの著作も、意志という言葉が非常に惹かれたと同時に、著者が収容所というやはり自分では抗えない状況に置かれていたということは大きかったです。
岸本葉子さんの本棚から3冊をピックアップ!
『意味への意志』
V・E・フランクル著 山田邦男監訳 春秋社
1946年から1971年の間に行われた4つの講演「意味への意志」「時間と責任」「ロゴスと実存」「科学の多元論と人間の統一性」を収録。
『それでも人生にイエスと言う』
V・E・フランクル著 山田邦男・松田美佳訳 春秋社
ナチスの強制収容所から解放された翌年に行われた3つの講演を収録。訳者である山田邦夫氏は本書の解説の中で、この本を「生きる意味を説く書」と表現している。
『自覚と悟りへの道 神経質に悩む人のために』
森田正馬著 水谷啓二編 白揚社
医学博士である著者は、青年時代に神経質症状で悩んだ経験をもち、のちに「神経質の本態と療法」を発見。この本は、神経質を正しく理解し、心の悩みを解決するための森田式生活相談が記されている。
岸本葉子 きしもとようこ
エッセイスト 1961年神奈川県生まれ。大学卒業後、会社勤務、中国留学を経て、執筆活動に入る。食や暮らしのスタイルの提案を含む生活エッセイや、旅を題材にしたエッセイを多く発表。同世代の女性を中心に支持を得ている。著書は『がんから始まる』『がんと心』(文春文庫/文藝春秋)『生と死をめぐる断想』『ふつうでない時をふつうに生きる』(中央公論新社)句集『つちふる』(角川文化振興財団)など
「がん&」編集部から岸本葉子さんの著作本をご紹介
『がんから始まる』(文春文庫/文藝春秋)
著者ががんを告知され、自分ががん患者として体験したこと、感じたことを綴ったエッセイ。この本の解説を書いた竹中文良氏は、この本について「がん患者学入門ともいえる」と記している。
『ふつうでない時をふつうに生きる』(中央公論新社)
2019年3月から2020年10月までの、日本経済新聞の生活情報面での連載を中心としたエッセイを収録。新型コロナウイルスの感染拡大が始まったころからの、筆者のそのときどきの気分や生活実感を、ありのままに記した一冊。
取材日:2021年9月30日
編集・取材・執筆:早川景子
イラスト:宇田川一美
掲載:2021年11月25日